丁寧に生きるとは何か?その意味と実践のヒント
「丁寧に生きる」ということをはじめて意識し始めたのは2年前位から。最初は部屋の掃除(ゆっくり心を込めて拭き掃除をした時など。)とか、なんてことのない日常生活のひとコマからでしたが、それが徐々に拡大していった感じでしょうか。
「丁寧に生きる」とは何かと問われると、なかなか説明が難しいものがあり、私が丁寧に生きられているかどうかもよく解りませんし、どうやって生きたら丁寧に生きられているのかの正解がよく解りません。
数年先になるとまったく別の捉え方に代わっているかもしれませんが、現状の私見として「丁寧に生きる」を分析していきたいと思います。
丁寧とはそもそも何か?
丁寧に生きるには丁寧を知る必要がありますが、丁寧を辞書で引いてみると「注意深く念入りであること。細かいところまで気を配ること。動作・態度などが礼儀正しく配慮が行き届いていること。」とあります。
読んで字の如くですが、丁寧に生きるとは丁寧という熟語の意味を体現して生きているというイメージがそのままぴったりと当てはまりそうです。
土井善晴先生的 “ 丁寧に生きる ”
先日ポットキャストでラジオを聞いていた時に、料理研究家の土井善晴先生が丁寧に生きることについて「丁寧に生きるというのが流行り言葉になっていますが、現代で流行っている丁寧に生きるというのは抽象的過ぎるんです。私は丁寧に生きるというのは集中することだと思います。」と、仰っていました。
集中するという言葉をイメージすると仕事に集中することが浮かびます。PCなどに向かって仕事をわーってやっている時は確かに集中してそうですが、頭(脳)だけの集中になっている可能性が高い様に感じます。
この場合は、丁寧 → 集中 はあったとしても 集中 → 丁寧 ということは考えにくく、丁寧 = 集中 という公式は成り立ちません。
集中という言葉を辞書で引いてみると「一点に集める。統一させる。」とでてくるので、頭だけの集中では集中とはいえず、感覚も一緒に相まってこそであれば感覚を司る内臓も脳と一緒に働いてないといけないことになり、これが出来れば、丁寧 = 集中 という公式も成り立つ様に感じます。
土井善晴先生はラジオ内で「丁寧に生きることは集中することだ」の深堀りをされていなかったのですが、料理研究家で内臓のこともよくご存じな筈なので、恐らく脳と感覚どちらも相まっていることを集中として、集中して生きていることが丁寧に生きていることと表現されていたのだと思います。
私的 “ 丁寧に生きる ” 感覚
丁寧に生きる感覚は本来誰でも感じることができる筈ですが、現代社会では感じるというハードルがあまりにも高すぎる様に思います。
経営者になって15年が経過しますが、特に最初の10年は殆ど休みもなく、お金と仕事と時間に追われる毎日で丁寧に生きる余裕も無ければ、毎日をこなすことに必死で何かを感じることなんて不可能でした。
仕事をしてお金を稼いで家族を養っての繰り返し。経営者として家族の大黒柱としてはそれが当たり前というのが現代社会の常識ですが、ある日、我にかえった時に急に虚無に感じてがむしゃらにやってきたことが無意味なものという感覚に苛まれます。
生きるとは何かについて夜も眠れず1週間悩んだり、何のために頑張っているのか解らない感覚で、ただ漠然と日々をこなしているだけになる時もありました。
数年前から海水温熱療法やエクストリームスポーツや瞑想を通して量子力学的な感覚が身についてきてから、日々の生活やものの捉え方や思考癖に変化がでてくることによって、これまでおこなっていたことが少しずつ丁寧に大切におこなえるようになって、それが積み重なっていくことで丁寧に生きる感覚というのが自覚出来るようになってきました。
言葉で表現すると
「身と心が一致してきた。」
「脳と内臓が一致してきた。」
「今ここを生きている。」
といった感じです。
丁寧に生きるコツ
私自身が常に丁寧に生きられている訳ではありませんし、人によって丁寧の度合いが異なりそうなので、これをすれば丁寧に生きられるということではないですが、コツの1つとして以下を紹介します。
資本主義社会の日々騒々しい時代に生きている私たちは毎日を生きること(こなすこと)に必死で小さい発見や幸せを見失いまくっています。
小さい子どもの時を思い返してみるとよく解ると思いますが、小さい子どもの頃はちょっとした自然やちょっとした興味のあるものに足をとめ目をとめて見過ごさずに感じることができていました。
それが概念を徹底的に叩きこもうとする学校教育、その延長上にある枠や概念で縛り上げられている社会があり、こんな生き方を強要され続けられることで大人になるにつれて気づけずに見過ごすことが加速していき、お金を稼いで良い暮らしをすることだけが幸せだという錯覚に陥らされ、資本主義と合理主義のみこそが正義というのが当たり前という世の中で骨抜きにされています。(資本主義と合理主義にもメリットがありますし、好きな部分や肯定する部分も多分にありますが、解りやすくする為に少々誇張しています。)
まずそのメカニズムに気づかないことには、なかなか丁寧に生きることは難しいので、そういった意味でちょっとした幸せに気づきやすくしてくれる本としておすすめなのが、レイチェル・カーソン著のセンスオブワンダーです。
センスオブワンダーとは、ある対象に触れることで受ける不思議な感動や心理的感覚を表現する概念としての言葉ですが、この感覚を持ち続けることによって人生が豊かになることを再認識させてくれた本です。(決して宗教的や哲学などの押しつけがましい本ではなくて、著者の子どもの感性を書き記した、ただそれだけの本です。)
丁寧に生きる為には、まず何かに追われ続けている現代社会に飲み込まれてしまった自身と、子どもの頃に元々持っていた感覚の差異を感じることが近道なので、ぜひこの本を読んでみることからはじめることをおすすめします。
養老先生的社会の概念からみた “ 丁寧に生きるコツ ” の補足
私の好きな知識人の1人である養老孟司先生(医学者・解剖学者・東京大学名誉教授・通称:養老先生)の動画で面白いことを仰っていました。丁寧に生きるコツのところで記述した概念中心の世の中で感覚を無視した社会の説明を解説されているものを抜粋しています。
--- 以下養老先生解説の抜粋 ---
教育でいうとね非常に重要なことがあって、中学生の算数に文字が入ってくると、2X = 6ならX = 3って話があるけど、子どもによってはこれが気にくわない。何故かというとXは文字で3は数字。文字と数字はイコールなのって?(これは屁理屈じゃなくて感覚。)あと文字だけの方程式を解いたらa = bになった、子ども達はこれが許せないんだよね。aとbって違う字でしょ?aとbがイコールなら明日からbっていう文字はいらない。bのところもaって書けばいいんでしょ?ってなる。そこで引っかかっているのは理屈じゃなくて、文字っていう概念と数字っていう概念のぶつかり合いが起こっていて、その裏に何があるかっていうと感覚がある。(文字と数字は違うというのは理屈じゃなくて感覚だから。)現にaとbは違うのだけど(aとbは文字として違う。)それをイコールにしろって言ってることは、何か自分の基準を壊すことになってしまってるんです。だからa = bなら、そんなことが成り立つなら何でもありだなっていうことになってしまう。なんでそこが引っかかってしまうかというと、そんな汚ないことはできないっていうことに引っかかってくるんです。そんな汚いことはできないっていうのは倫理ですよ。だから人間が頭が進んでくると(a = bでいいでしょって)倫理を無視されてるってことになってしまうんです。
イコールにするっていうのは、ミカンとリンゴは違うでしょっていくら頑張っても、要するに果物でしょって言われてしまったらそれっきりでイコールになってしまう。(ミカンとリンゴは全然違うのに。)でも世界はどっちかっていうとa = bの方向にいっていて、それを突き詰めたのがコンピューター。0と1です。0がいつまでも0で0と1は違いますよと、同じと違うのはそこでキレイに頭の中でまとめているんです。でもその違うは実は違うでしょ?頭の中で違うんだよっていう。感覚が違うと言っているのは、見たら違う、聞いたら違う、食べたら違うで、中学生段階では実はそういう社会的な倫理観っていうものがある程度形成されているんです。
それでa = bが素直に認められるような子どもはどんどん学校で進んでいく。そこで引っかかっちゃう子どもは置いてかれますから芸術系にいったりします。a = bを素直に認められる子はそれが染みついちゃってコンピューターと同じになってしまいます。だからロボットとかコンピューターが人に似てくるっていう人がいるけれど、これはとんでもない話で、今の人はものすごく傲慢で人間ってこんなもんだって決めてるってことです。でもそうではなくて、人間って色んな状況に合わせることができるんです。柔らかいんです。だから人間がコンピューターの世界に合わせることができる。それを1番よく示しているのはカラオケです。僕らの時には弾き語りというのがいて、調子外れて歌ってたら向こうが合わせてくれたんですよ。そんなカラオケの機械あるのかっていう話でカラオケに人間が合わせなきゃいけないでしょ。何がコンピューターが人に似てくる?冗談じゃない。人がコンピューターに似てくるんですよ。昔っからコンピューターに似てきた人ってたくさんいて、それを我々は官僚って言ってたんです。
感覚の世界が消えると何でもありだっていうこと。だってイコールって人間が持つ最大の特徴だって本に書いてあって、木の葉っぱをみたってまったく同じものなんて1枚もないんです。(だから自然に行けって言ってるんです。)同じにしてるのは人間の概念でしかない。概念って同じにするってことですから、それで正しい正しくないって言っているのがそもそもおかしい。ミカンやリンゴだと食べたら味の感覚で戻せるから正解がでるけど、正義とか公平とかそういうのは感覚を戻せないから完全に概念同士の中でやるしかなくて、そういうものを切って貼ってあるのは本当にバカなことなんです。
--- 以上養老先生解説の抜粋終わり ---
少々解りにくところもあるかもしれませんが、a = bは感覚的におかしいのに、a = bになってしまっている。社会にでてもそんなことは山ほどあるのに「そんなもの」として、納得せざるを得ない世の中になってしまっている。
土井善晴先生が丁寧に生きることは集中することと仰っていて、これが正解だとすれば、集中には感覚が必要不可欠で、その感覚を蔑ろにさせられている状態では集中もできなければ丁寧に生きることもできるはずがありません。
なんとなく気づき始めている方はたくさんいらっしゃると思いますが、今の世の中はなにかおかしいんです。生きにくいしだんだん辻褄も合わなくなってしまっていますしね。
だから感覚を取り戻すために「自然に還る。」「感覚を司る内臓機能を高める。」この辺りがすごく大切になってきます。
丁寧に生きると健康になれる?
丁寧に生きると健康になれる感じがしませんか?
充実した毎日、精神的に穏やかな日常。なにやらカラダにも心にもすごくよい感じがします。上述した様に、丁寧に生きるには集中が必要でそのためには種々の一致が土台になってきます。種々の一致で代表的なものが…
- 心身の一致。
- 脳と内臓の一致。
- 今ここを生きる。(時間軸の一致。)
になりますが、これらができている時点で既に間違いなく健康です。これらを一致させる為には精神の安定や内臓の働きが良い状態がいりますので、それがある時点で最早というところです。若干ニワトリが先が卵が先かというニュアンスもありますが、これらのことから丁寧に生きると健康になれるというのは間違いないものだといえます。
丁寧に生きられたら若々しくいられる?
SNSなどでみかける丁寧に生きられている方は、凄く若々しくみえます。丁寧に生きられている方以外でも好きなことをされている方や本質的に楽しく生きられている方は皆さん若々しいですね。
丁寧に生きると健康になれるので、健康である以上若々しくいられるのはまさにその通りなのですが、好きなことをされている方や本質的に楽しく生きられている方も同様に若々しい理由は相対性理論にあると仮説を立てています。
アインシュタインの相対性理論の説明では、慣れないことや能動的になれないことをしている時は時間が長く感じてしまう。逆に集中していたり楽しい時には時間が短く感じる。
後者の場合はいわゆるフローという状態になっていて、この状態がたくさんあると他の人よりも感覚的に時間がゆっくり流れることになる。そうすると歳をとる速度が遅くなる。よってアンチエイジングに繋がり若々しくいられる。こんなことも考えることができてしまいます。
相対性理論や量子力学に馴染みがない場合は、なにやらSFちっくな感じで、まさかという感じになってしまいますが、丁寧に生きている方や好きなことをして楽しんでいる方のほとんどが若々しいとなれば、あながち否定もできないことになりそうですね。
まとめ
丁寧に生きるを知識人の知恵を借りながら仮説を立てながら分析してみましたがいかがでしたでしょうか。
ここで書いたことはあくまでも私見であり仮説ですので、化学的や医科学的根拠は一切ありません。丁寧に生きること事態が学術的に研究されておらず、丁寧に生きるということは、古きを生きることの流行の一反でもありますので、今回の分析が正解なのかどうかも定かではありません。
ただ、脳の思考や概念だけに捉われることなく感覚的に生きることは重要なポイントとなるのは間違いなさそうです。
思考癖を修正したり内臓機能を向上させるなど、人によってはなかなか大変な作業になりますが、少しでも丁寧に生きることができるようになると、価値観やものの見方が変わってきて凄く楽しくなってくるのでぜひ挑戦してみてください。